以前[実り」でも少し触れましたが、私が花(自然)に目をむけるようになった経緯を書きたいと思います。
そのきっかけは、混声合唱組曲「季節へのまなざし」を歌ったことです。
唐突にこのようなことを書くと戸惑われるでしょうが、以前より西欧への憧れが強く(思想・哲学・宗教
の上に芸術が花開く)、その点日本人はなんなのかと思っていました。このことは、機会あれば別に書きたいと思います。
しかし、この曲をして、ああ、なんて日本は四季折々豊かで、繊細で、暖かいのか と、日本人も捨てたものではないと、思いました。だからこそ、最近忘れがちな繊細さや、四季を愛でる心を忘れてはならないと・・・・。
その当時、演奏会直前のこと。曲について・・・
人生豊かになる。というのか、繊細さを感じ日本人で良かったと思う。
でも、表現しきれない。
(24歳では)人生経験が浅すぎる。思っている以上にきっと奥深い曲と思う。
悩んでいたけれど。年配の人に言うと、「そこまで考えている人いないよ。そこまで行けるだけでいい
のでは?そんな哲学的なこと考えなくてもいいよ」と。とても、嬉しかった。
それをきっかけに、今まで何を見ていたのかと、目をむけていない自分が恥ずかしくて、目を向けるようになっていきました。私にとって花が一番身近な対象だったのです。
最初、花を見に行くだけ。それから写真を撮るようになって、カレンダーや絵葉書へと実を結びました。
MGさん、こんな感じになりました。きっと、余計なことをいっぱい書いてるでしょうけれど。
最後に、季節へのまなざし の作詩者 伊藤海彦さんの言葉を紹介して終わりたいと思います。
この作品で私はこれまで絶えずくりかえしていた「見る」ことの歓びと「見えないもの」の発見をまたうたっている。だがそれだけではない。「見えないでいるもの」の恐ろしさや「見えてくる」ことの不幸にもふれている。見るという行為が本当に実るためには、こうした影の部分まで感じとらねばならないからだ。私たちは自然の一部であるが、その私たちの内部にもひとつの自然がある。とりまいている外の世界をよく見ることによってのみ、私たちはそれぞれの心の自然ーその季節の意味を知ることができるのだと思う。
2007年02月03日
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ただ年輪だけ重ねただけのような年配の人もいますしね。(私も耳が痛いです。)
同じように、人それぞれ見えるものが違うということです。さちこさんが見るべきもの、見えないものは私とは全く違います。
日本の文化、芸術はやはり四季の豊かさが根底にあるのは当然でしょう。日本人の専売特許ではありませんが。
音楽の方では、昔から特に日本、朝鮮、中国人の感覚は低音感が欠如していることが指摘されています。ピミッド型の音域ではないですね。
これはオーディオなどに本格的に取り組んでいると良くわかります。
話しがアチコチに行きがちで申し訳ないです。
少しづつ、テーマを絞りながらでないと難しいですね。書ききれませんもの。
それにしても、お若い人だったので驚きました。
え、お若い人?いくつに見えているのでしょうか。ちなみに当然のことながら24歳じゃないです。
あれから、何年経っているでしょうか。(笑)
書いたけれど、自己嫌悪です・・・。
いろいろな見方や感じ方があってもいいと思いま
すし、あって当たり前だと思っています。
さちこさんは、合唱曲とのかかわりから花を愛でて
いらっしゃるのですね~
深い文化的な香りに裏打ちされた接し方をされて
いることに感心させられます。
ウチの場合は、花がきれいだから、愛しいからと
いう単純な理由ですので、恥ずかしい次第です。
ウチは西洋の思想や哲学を学んだこともありませ
んし、行ったこともありません…^_^;
それで、思いは身近なふるさとや日本にだけ向かっ
てしまいます。
生まれたふるさとがとても愛しいし、美しい四季の
ある日本がこよなく好きなのです。
その山野に芽吹く草木の姿や個性あふれる咲き方
をする花たちに心が惹きつけられます。
ちょっと年寄りっぽいですが、それらと遊んでいる
と、いつも背中を押してもらっているような気が
してくるのです。
深い文化的な香り・・・まあ。
入る糸口は、人それぞれですけれど、想いは同じなのだなあ、とコメントいただき嬉しく思います。
風恋さんの四季に対する思いは、本当に尊く、誇り高く忘れてはならないものだと思います。
本当に嬉しくて、感動しました。