2012年10月14日
「西行花伝」
以前より読みたかった 辻邦生著「西行花伝」を読了しました。
西行は、武士の家に生を受け、この世をより深く豊かに生きるために出家遁世の身となり、満月の白く光る夜 花盛りの桜のもとで、七十三年の生涯を終えた。
谷崎潤一郎賞受賞の本書は西行の弟子 藤原秋実が、西行ゆかりの人物を訪ね、彼らが序の帖から二十一の帖において語り手となっている。
摂関家の内紛、源平の盛衰(著者はこれを時代のどよめきとしている)の中で、歌心、花心、雅、美、そして仏教という深遠な世界が広がります。
特に待賢門院との恋、崇徳帝とのやりとりは、深く心に響きます。
主題は美と現実の相克。
私自身が現実を超え、美の優位を心底から肉化できなければ、この作品を書いても意味がないーそんなぎりぎりの地点で生きていたように思う。
と著者は言う。
心に深く残った言葉に、ラインを入れていくとその箇所は膨大なページとなった。
その中より、いくつかここに残して置くこととする。
ここで大事なのは、的を射ぬくということと同時に、雅であるということなのだ。どちらが大事かといえば、的に当たることより、むしろ雅であるということだろう。なぜなら雅であるとは、この世の花を楽しむ心だからだ・・・・。(二の帖)
旅に出ることの意味が解ったのは、この一種の深い悲しみと愛惜が、身の内を貫き、常住、哀傷の風が吹き渡るのを全身で知ったときであった。(十一の帖)
歌はただ歌会の遊び(すさび)でもなく、勝手気ままな胸の思いの吐露でもない。歌は、浮世の定めなさを支えているのだ。浮世の宿命は窮め難く、誰にも変えることはできない。だからこそ、歌によってその宿命の意味を明らかにし、宿命から解き放たれ、宿命の上を鷺のように自在に舞うのだ。歌は、宿命によって雁字搦めに縛られた浮世の上を飛ぶ自在の翼だ。浮世を包み、浮世を真空妙有の場に変性し、森羅万象に法爾自然の微笑を与える。それは悟りにとどまって自足するのでもなく、迷いの中で彷徨するのでもない。ただ浮かれゆく押さえがたい心なのだ。花に酔う物狂いなのだ。生命が生命であることに酔い痴れる根源の躍動といってもいい。歌はそこから生まれる。(十五の帖)
この記事へのトラックバック
タイムリーな感じ。
西行にとって歌はただの『歌の上手』ではないんですね。
お遊びではなく、全身全霊を傾けて感じ取って表現いる、
それによって生きている感じがします。
うまく言えないけど…
ちょっと難しそうな文章ですけど、私も読んでみたい気がします^^
大河ドラマ「平清盛」の年にこの本に巡り合ったのも何かの縁なのかな・・・と思います。
かみしめて読みたくなるようなとてもとても深い本だと思います。
私が読んだのは1995年発行の箱入りのハードカバーです。新潮社から文庫本が出ているのでそちらだと読みやすいと思いますよ。
読むのは自分のペースでいいので一度手にしてみてくださいな。