3月下旬の休日、暖かいので散歩をしたくなった。
特に目的もなく、歩いているとなぜか図書館に。
特に探していたわけでもないのですが河合隼雄氏の著作二点を借りることに。
その著作をめぐる話を書きたかったのですが、なかなか記せず今日に至りました。
と言いますのは・・・
本を借りた頃、祖母のことを思ったが、本の返却期限を待たずに祖母は逝ってしまった。
急いで、重要な所を書き留めて、返却した。(当然、手元に本はない)
このような表現をして理解していただけるか不安ですが、父の時は、東洋と西洋で言うと、気持ち、思想が随分西洋に傾いて、なかなか戻って(どこに?)来れなかった。今回は、どっぷり和の世界にいるようで記事にする気持ちにまで到達出来なかったのです。
さて。
河合隼雄氏の「おはなしの知恵」と「ケルト巡り」
(以下、抜粋は著作いずれかに記載あり)
氏は、「おはなしの知恵」の中で、「おはなし」の復権について
自然科学もテクノロジーも大切だ。これがなかったら現代人の生活は成り立たない。しかし、それによって人間が生きることに伴うすべてのことが解決されるわけではない。
最近になって、自然科学にのみに頼って世界観、人生観を築くことがあまりにも一面的であることに人々は気づきはじめた。
と述べる。
科学がいくら発達しても、死は無くならない。「死は恐ろしく、非合理」その通りだと思う。
キリスト教世界(主に西洋)とそれ以外の世界の違いについて、神話の創世記を見る視点が興味深かった。
キリスト教はまずカオスがあり、はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが・・・・
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神は、その光とやみとを分けられた。
これは、「ケルト巡り」にも記載があり、
キリスト教は 一神教で唯一絶対神。善悪や「正義と異端」といった、二極的な考え方である。
そこから文化が発達し、・・・そこから生まれた科学や技術の強さ
ということである。
一方、日本などの神話を見ると、世界の始まりが自然発生的である。
物語の、困難に対する解決法も自然発生的解決である。
(例えば、グリム童話などでは、お姫様が窮地に立たされた場合英雄が出てきてその相手をやっつけてめでたしめでたし。一方、落窪物語では、嫌な相手(おじいちゃん)が寒空の中下痢して難を逃れめでたしめでたし?)
違いを創世記に見る視点は、父の遺稿集にもあったなあ(ただし言語学アプローチ)と思うなど、どこかで読んだような気がするな、遺稿集に書いてあったこととリンクするなとか不思議な気持ちになっていました。
また、片子のはなしがあり。片子とは鬼と人間の間の子で、人間の国に帰ってくるが、結局共同体の中で「誰からも相手にされず」自殺してしまう。
氏と岸本恵子氏との対談で
両者ともに自身を 半分西洋人半分日本人
と表現する。
和洋折衷
私も、まさに思えば片子の気分。
私はおそらく自覚のない帰国子女であろう。
そして、「ケルト巡り」での氏と魔女(職業として、相談者の悩みを聞く、タロット占いをする)の対談も興味深い。
両者は、相手に「選択肢を提示するのみで決定的なことは何も言わない」というのが共通点らしい。もちろん、いかに相手からバックグラウンド?を引き出すか(拙い表現ですが)が大変で重要かということであろう。
ところで、私は日頃、思うことがある。
日本人は、根本(キリスト教や思想)なく、技術(表面)のみ手に入れたのではないか。それが、種々の問題を引き起こしているのではないか。
そのことは、こそっと、記載があった。(ちなみに遺稿集にはバリバリ!書いてある。)
また、
個人主義ではなく自分主義(利己主義のことか?)になっていると。
「ケルト巡り」では、以下の記載がある。
近代西洋が生み出した自然科学だけでは、もはやダメなのである。それを超える世界観、人生観を持っていないと、人は幸せにはならない。広い世界観のなかの一部の強力な部分として科学的な見方はある。それを含めたさらに広い世界観を持っていればいいのだが、科学技術的なものさしで世界のすべてを理解しようとすると失敗する。そこが難しいところだ。
「補・自然科学」
アンチ自然科学ではない。普遍的な確率の高いものを見失うことになる。どちらにも意識を少し持ちながら生きていくことが大切だ。
そうなんだ、「どちらかではなく、どちらも」なんだ。
これは、久々のAandBの記事です。
一応、このブログのテーマです(おこがましいですが)。
仕事ばかりしないで、休日には美術館にいったり音楽聴いたり・・たとえばね。
森を散策だけでも十分だが。
2014年04月13日
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