2022年10月30日

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」読了

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」マックス・ヴェーバー著 大塚久雄訳 岩波文庫 読み終わりました。
難しいけれど面白かった。もっと早く読めば良かった。
社会科学系では必須の書籍らしいが、人文科学系も自然科学系も読んだ方がいい。


ただし、以前より述べているように、
巻末の訳者解説に助けられたこと、本文と同量以上の訳注をすっ飛ばしたこと、勝手な解釈で楽しんだ、上での読了です。
なお、今後は、訳注をゆっくり読んでいく予定です。
過去記事、「カルヴィニズムの予定説」2022.10.22とも被りますが、思ったことです。

*****


*資本主義の精神を形作る中心的な要因とは何か?
ピュウリタニズムの「世俗内的禁欲倫理」=天職Beruf義務であった。


*なぜそのようになったか。

カルヴィニズムの予定説があった。
救われるかどうかは、生まれる以前より決まっている。知るすべもなし。
誰にも救えない、この悲愴な非人間性を帯びる説教は、個々人の内面的孤独へと続く。そして呪術からの開放。

救われるかどうかというのは、要するに人が亡くなった時に天国(救われる)に行くか 行けない(救われない)かということ。

この予定説がどのようにして行動的禁欲につながったか?
→ここでいう行動的禁欲とは 
 日本人が想像しがちな非行動的な禁欲でない。
 行動的禁欲(オリンピックのマラソン競走のよう)
 他のことがらへの欲望はすべて抑えてしまってーだから禁欲ーそのエネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込む、
 こういう行動様式が行動的禁欲。


人は、この絶望的な孤独の中でどのように行動したのか?

神によろこばれる生活を営むための手段はただ一つ、各人の生活上の地位から生じる世俗内的義務の遂行であって、
これこそが神から与えられた「召命」Berufに他ならない。
Beruf 職業、天職、神から与えられた使命

つまりひたすら働いた!

*ひたすら働いて(行動的禁欲)どうなったか。

金儲けしようなどと思っていたわけでなく、神の栄光と隣人への愛のために、つまり神から与えられた天職として自分の世俗的な職業活動に専心した。
しかも富の獲得が目的ではないから、無駄な消費はしない。それで結局金が残る。残らざるをえなかった。
これが隣人愛を実践したということの標識となり、したがってみずからの救いの確信ともなった。
つまり、
利潤を追求することは、悪ではない。自分のためではなく、神と隣人のためであるから。得た利潤は投資資本へ、そして寄付など社会貢献へ、ということだろう。

*それでどうなった。

結果として金が儲かっただけではない。他面では、彼らのそうした行動は結果として、これまた意図せずして、
合理的産業経営を土台とする、歴史的にまったく新しい資本主義の社会的機構を段々と作り上げていく。・・・・
禁欲は、企業家の営利をも「天職」と解して、それによってこの独自な労働意欲の搾取をも合法化した。


*その後は・・・

資本主義社会の機構が確立すると、ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、禁欲の精神という支柱を必要としない。精神を失った「天職義務」の行動様式だけが亡霊のように残存するにいたり、ついにはそれさえも消え去ろうとしている。
営利の自由な地域では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、純粋な競争の感情に結びつく傾向がある。
この先どうなるかは不明だが「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつての達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と・・・。


しかし、この著作から既に一世紀以上時が経っている。

資本主義社会において、私たちは何を考えるべきであろうか。
否、日本人は、もともと明治以降西洋に追いつこうとその物質文明・機械文明の所産ばかり見て、その思想的原点に無関心であるため論外ということか?
なんとも、重い気持ちだ。
posted by さちこ at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索 | 更新情報をチェックする
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